Framingを始めた理由


私がFramingを始めた理由


知に敬意を払いたいと思った瞬間

私は、フランチャイズという枠組みの中で指導者として活動しています。
そこでは、現場の創意工夫や日々の試行錯誤から生まれる知が、当たり前のように“無料で共有されるもの”とされてきました。

でも、私は、ベテランの先生に無料で教えていただくことができません。
なぜなら、その知は、その方の経験と人生から生まれた、かけがえのない財産だからです。

教室を見学させていただくときも、必ず菓子折りなどを持って伺います。
でも、本当はこう思っていました。
「これが“対価”として、もっと自然に渡せたらいいのに」と。


気持ちを、かたちにできる文化へ

気持ちで済ませるのではなく、きちんと形にして渡せるしくみがあれば、
私たちはもっと対等に、誇りを持って知をやりとりできる。
それはビジネスではなく、敬意を前提とした文化の話です。

そんな中、私は本部の局員から、こう言われたことがあります。
「このアンケート、他の先生にも無料で紹介していいですか?」と。

それは、私が必死に時間をかけ、現場の声を拾いながら独自に作ったアンケートでした。
また、幼児指導の中で試行錯誤しながらまとめたHowToも、同じように軽く扱われたことがあります。


“知”が軽んじられる構造に、問いを投げる

「無料で共有していいか?」というその一言に、私は大きなショックを受けました。

アンケートは、たしかにプロフェッショナルな水準とは言えないかもしれません。
幼児指導のHowToにも、まだ至らない部分があったかもしれません。

それでもそこには、指導者としての時間と労力が注がれていました。

その知を生み出すために、私は自分の体と頭を空けるためにスタッフに多くをお願いし、
その分、集中して向き合いながら試行錯誤して形にしたものでした。

にもかかわらず、その営みが軽んじられたように感じたのです。 そこに“感謝”も“敬意”もなく、ただ「便利だから配る」という感覚が透けて見えたからです。

このような役割の逆転や境界の曖昧さが、Framingが問いかけようとしている構造的な課題なのです。


自分で知を選び、学ぶ自由を

私たち指導者には、「本部からあっせんされたアドバイザー」がつく制度があります。
しかしそのアドバイザーは、自分で選ぶことができません。

自分の課題感や目指したい方向とまったく違う人がつくことも、現場では現実に起きています。

講座で聞く情報も、いつも自分の現場に即しているとは限りません。
でも、本当に欲しいのは、自分と同じような悩みを乗り越えた人から学ぶ機会ではないでしょうか。

Framingが育てたいのは、それを解消できるしくみと文化です。


「価値があるから対価を払う」しくみへ

この人の知なら学びたい。
この知は、自分の現場で活かせそう。
だから、敬意と対価をもってアクセスしたい。

「無料だから」ではなく、「価値があるから対価を払う」。

フランチャイズという構造の中で、教育の現場で生まれる知は、
本来であれば尊重されるべき知的財産であるにもかかわらず、
長らく“無償で共有されるもの”とされてきました。

でも、すべてが無料であることが、実は質の低下や知の搾取を支えてしまっている。

知に対価がつくことで、初めて「これは価値あるものだね」と互いに認識できるようになる。
Framingは、そんな“知に額縁をつける”場所です。


教育者が、教育者のままで評価される社会へ

事業主である私たちにとって、「対価」という考え方は欠かせません。
何に価値を感じ、どれくらいの対価を支払うのか。
そうした感覚も、小さなやりとりの中で少しずつ育てていけるのだと思います。

経営者としての学びがまだ十分でない私たちにとっても、
こうした小さなコストに意識を向けることは、とても大切なことだと感じています。

誰かが生み出した知が、また別の誰かの現場で活かされるように。
その時、敬意がかたちになるように。

Framingは、そんな未来の文化を、ここから育てていきます。